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タイの犬たちは本当に自由だ。寝たいところで寝て、腹が減れば飯を食らい、気に入らなければケンカをする。日本みたいに、首輪で繋がないと噛まれて危ないじゃないか!なんていう人もいない。同じ場所で、人は勝手に生きて、イヌも勝手に生きている。イヌだけじゃない。他の動物も植物もみんなそうだし、人間同士でも、他がどうでもまあ別にいーじゃねえかという雰囲気がタイにはあると思う。自分の領域を侵された瞬間に怒ってしまうどっかの国とは違うのだ。お互いがうまくやっていくために、自分の領域に入ってくることを拒むのではなく、お互いの価値観をまずは認めようという感じなのだ。だいたい戦争なんてものは、互いの価値観を許せないから起こることだったりする。

イヌの話しからずいぶんと大げさになったけれど、許せるってことと拡がるってことはすごく繋がっている気がするよ。そうしたら、国境なんていうものはなくなっていくんじゃないかな。


お正月休み(12/31~1/2←短え!)は、帰国するお金も十分な時間もないので、
サムイ島を経由のタオ島でテントでも張ってぐだぐだしてきます。
では、みなさんよい年をお迎えくださいませ!来年も、どーぞよろしくお願いします。
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僕の通う建設現場には、レイバー(労働者)キャンプっていうのがある。日本の労働者みたいにそれぞれに家があってそこから通ってくるんじゃなくて、現場の敷地の中のキャンプに住んで、そこから仕事に通い煮炊きして生活している。家族はどうしてるかっていうと、昼間は水浴びしたり洗濯したりして、小さい子供の通う幼稚園まである。まあひとつの小さな村だね。

で、そのキャンプの中というのが生活臭があって面白いもんだから、たまに監視をしに行くふりをしてうろうろするんだけど、ある日投網を担いでキャンプから出て行くやつがいたんだよ。何をしに行くのかなあと思って後をつけていったら、水溜りで魚とかエビを捕ってるんだよね。その水溜りというのが、そのレイバーキャンプから出た生活排水でできた水溜り。つまり煮炊きをしたり水浴びしたり排泄したりっていう水がそのまま流れ込んでいるんだよ。

うわーっ、と思ったね。自分の感覚では、その獲物をとても食う気になれないよ。ところで、現場の食堂でもエビとか魚とかメニューにあるんだけど、やつらはどこから来たのかってたまに気になる。でもうまいよ!
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僕の仕事は、第一次産業と第二次産業の間に位置していると思う。ところで僕は第三次産業的な仕事というものを、どうもそんなに信用してこなかった。なぜならこれは僕の勝手で感覚的な考えだけれども、労働=汗という着想と思想があるからだ。実際生きるために必要な、食べ物だとか道具だとか、そういうものを生み出すことのできる人こそ偉いのだと、ずっと思い続けてきた。

けれど特に先進国に言えることだと思うけれど、もはやモノは溢れかえり、着ること、食うこと、住むことにはこと足りて、生きることそれ自体に困ることはなくなった。困らなくなったどころか人は、よりいいモノ、よりおいしいもの、より快適なもの、より楽しいものを求めていて、逆にそれを提供できなければ会社や個人として他との競争に勝てない。もはや「ある」ということだけではダメなのだ。それは人間の欲求の自然な結果だと思うし、それこそが文化を押し進める原動力になりえるし、もっといえば人の幸せを叶えることだとも思う。

実際タイに来てみて感じることは、すでにモノは十分に溢れていて、人々の興味はよりいいモノ、よりおいしいもの、より快適なもの、より楽しいものという方向に向いていると感じる。


そこで自分の仕事のことを川の流れに喩えて考えてみると、そこには既に大きく揺るぎない川の流れがあって、(こういう言い方は好きじゃないけど)人との競争に勝つためには、まずその川で泳ぐ力をつけてから、自分の泳ぎ方で進んでいくしかないと思える。その川の流れは、昔からの流れがあればあるほど、太くて速い。だからそこで泳げるようになるためには、人と同じような修練をたくさんしなければならない。もちろんそこに運動神経みたいなものはあるから、人より早く泳げるようになるやつ、そのまま川に流されちゃうやつもいる。

ところがいわゆる第三次産業的な仕事というのは、安定的な流れじゃない淀みのような場所がたくさんある分、自分勝手な泳ぎ方も可能なんじゃないかという気が最近してきた。もちろん自分から流れを作ることもできるし、それが流れとして軌道に乗れば、新たなお金の流れになっていくのだと思う。

そう考えると、第三次産業的な仕事のほうが、ずいぶんとクリエイティブじゃねえか?面白そうじゃねえか?って思えてきた今日この頃。うちの会社も不動産の証券化とかなんとか変化球を投げようとちまちまやってるけど、あくまで支流に過ぎないんだよな。本流に流れがなくなればそれで終わり。

いやー、これからどうすっかな。
by beerman7 | 2005-12-24 11:53 | 雑記
先日オカマバーに行って来ました。いやー、とにかく見た目はすごくキレイ。よく、タイで一番にキレイなのはオカマといわれているけど、僕も今までそのオカマたちよりきれいなタイの女性を見たことがないです。骨格とかはどうしようもないと思うんだけど、どこをどういじったらスタイルまでそんなに変われるのか不思議で、男らしさといえば腹筋や大腿四頭筋が少し硬めだったりすることくらいです。あれは本当に人類の奇跡だと思います。余談ですが、ポールのカットは10000バーツ(30000円)だそう。

ところで見た目以外の部分についてですが、タイのオカマは腕っぷしが強い。座ってビールを飲んでいたら、すごい腕力で抱きしめられて危うく別室に連れて行かれそうになった。それから言葉使いなんかでも、タイ語では文末に、男は「カップ」、女は「カー」とつけるんだけど、見た目は女なのに「カップ」と言って本性がバレちゃったりということもあります。

そんなふうに観察していると、見た目以外の部分の男性らしさは他国のオカマと比べて完璧さ?では劣るのかもしれないけど、それはタイのお国柄としてオカマが市民権を得ているということにも一因があるんじゃないかと思ってます。
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僕の勤めるタイの現地法人の会社で、社員とその家族による運動会がありました。これがまあ日本とはいろんな違いがあってすごく面白かったんですが、それをつらつらと何回かに分けて書こうと思います。

初回はオカマの話し。タイではオカマが市民権を持っていて、普通の会社でも女装した男性が働いていることもあるらしい。

で、僕の参加したこの運動会にも、オカマちゃんが来ておりました。誰もなんとも思わないみたいで、気にも留めてない感じ。最初はそれだけでも驚きだったんだけど、リレーではなんとキャーキャー叫びながら女の子チームで走っていました。

タイには「マイ・ペン・ライ(大丈夫、気にしないで)」という言葉があって、タイ人の気質を表す言葉としても有名。本当は気にしなくちゃいけないことでも「マイ・ペン・ライ」。一緒に仕事をしているとイラつくこともありますが、見方を変えれば人を許せる寛大さを持っているってことでもあるし、オカマが市民権を得ているのもそんなタイ人の気質のおかげかも知れません。
「自信がないとかあるとか、言ってられない」
そういう経験をしているうちに、自分が変わったんです。
自信ある、とか、自信ない、とか、ほんとに、どうでもいいことなんですよね。
いい結果がだせたら、自信がなかったとしてもオッケーだし、
いくら自信があっても、結果が出せなきゃ稼げない。
意味がないんです、自信なんて。

『今日のダーリン』より


いやー、こっちでの仕事は正直しんどいです。カール・ルイスと100m走してるくらい、実力差がある。こういうときは、自分に仕事が向いてないのかなあなんて、半分いい訳みたいなことを考えちゃいがちです。そんなときに目に留まった言葉。環境が変わるといろんなインプットが変わるから、考えることが変わったり考え方が変わったりするから響く言葉も変わってくるもんだね。
誰か試したら教えてください。相当まずいらしいですから。
ジンギスカンキャラメル
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タイには季節が3つしかなくて、冬(11月~2月まで)、夏(3月~4月まで)、雨季(5月~10月)までという分かれ方をしているんだよね。まあタイ人に言わせると、「hot」、「very hot」、「wet and hot」らしいけど。で今朝、歯を磨きながらはっと思ったけどね、例えば日本の今の季節(冬)だと、朝寒さで起きるのが辛くなってきたり、鍋物がおいしい季節になってきたり、人肌が恋しくなったりとか、寒さからくる辛さとか欲求とか幸せとかいろいろ出てきますよね。それって、同じような文化圏の同じような気候帯(これを地域とか地方とかいうのかなあ?)に住んでいる人同士だったら簡単に分かり合えると思うんですよ。まず、寒いという状況があって、じゃあそれをどうしようかという知恵とか思考とかがあって、するとそこから生まれるまた別な感情ってのがでてきて、それが経験感情として身についていくからね。

ところがね、バンコクはいま一応冬だけど最高気温は30℃を超えるし、冬とは名ばかりなんだよね。街が年末に向け、イルミネーションで徐々に彩られるようになってきたけど、僕にとってはすごい違和感なわけ。寒くないのにイルミネーションで彩られている街の風景っていうのが。僕の経験感情では、イルミネーションで飾り付けされるのは寒い季節だってインプットされているからね。それは例えば真冬に花火が上がることだったり、梅雨時に石やきいも屋が走ってたり、雪の上でスイカ割りするってことなんかと一緒かなあ。これは僕が勝手に思い込んでいる常識ともいえるけど、日本人という括りで言えば公約数的な経験感情だと思うんだよ(だよね?)。だからわざわざ言葉で説明しなくても、同じようにぐっと来たり似たような違和感を感じたりってことになるんだなあ、きっと。こないだタイ人の友だちと飯を食ってて食べ物の話になったときに、日本は今鍋物が美味しい季節だよって言ったら、どうも季節によって食べ物が変わるということがあまり感覚的につかみにくいようだった。バンコクは一年中同じような気候だから、あまりそういうのはないんだね。だからその感覚的であまり言葉として表れてこないものをお互いに認識できないと、コミュニケーションはもっと手前のところで止まってしまうことになっちゃうんじゃないかなあ。

何かを理解するってことはきっと、本で読むだけとか情報として知るだけでは物事の本質を理解するということに繋がって行かないんだろうなあってことを改めて感じましたってこと。だからまあ例えばある国を理解するってことで言えば、その国の人たちと同じ空気を吸ったり飯を食ったり排泄したり、言葉として表れてこないものを肌で感じて違いを知るってことはすごく大切なことなんだろうねえ。