カテゴリ:インド旅行記( 11 )

でかいものはえらい ('95.8.5)

アグラの街をオートリクシャーが走り出す。首都デリーと比べると街全体がこじんまりとしていて舗装道路も少なくあまり高い建物も見当たらない。ホテルの屋上からは連なる民家の向こうにタージマハルを見渡すこともできた。アグラはタージマハルを始めとする数々の有名な建築物が集中する、16世紀の半ば頃から約一世紀ほどムガル帝国の首都として栄えた場所だ。日本で言えば京都のような場所といえるかもしれない。しかしその荘厳たる建築物もインドのカーストという階級社会あってこそ成し得た業であろうから、今となっては何か物悲しい雰囲気を引きずる街として僕には映った。

まずはこの街を訪れた目的のひとつでもある、タージマハルへ向かった。オートリクシャーのドライバーは外で待っているという。中に入ると運良く日本人ツアーの集団を見つけることができ、そのガイドの言葉に耳を傾けた。すると宮殿だとばかり思っていたタージマハルは実はお墓なのであった。ムガル帝国の皇帝シャー・ジャハーンというおじさんが、好きで好きで仕方のなかった妃 ムムターズ・マハルを亡くしたとき、その愛の深さを表現すべく国のお金と労働力を使っておよそ22年の歳月を使って完成させたのだそうだ。なんという身勝手さ(笑)。しかしその結果、国は傾き、息子に幽閉されてしまうという悲しい最期を迎えることになったのだそうだ。

ボクは単純かつ無条件な感動というのが好きで、その後の旅も『でかいものはえらい』をひとつのテーマおよび自らの合言葉として、様々な遺跡を見に出かけた。そうして遺跡の傍らに腰を掛けて目を閉じ、風に吹かれながら先人たちの息吹に耳を傾けるのだ。もし自分がその時代に生きてこの建物建設に関わっていたとしたら、どんな風にものを考え感じていたのだろうとあれこれ空想することは楽しい。けどそんな気持ちと同時に、人間の愚かさを同時に見せられているような気分にもなる。権力者が自らの力を誇示したり、権力を己のために利用して造り上げたものも数多いからだ。そういえば、エジプトのピラミッドに「最近の若者はなっとらん」という意味の落書きがあったと聞いたことがある。それを聞いて、人間って時間がたってもそんなに進歩するものでもないのだなあと考えたことをふと思い出したりしていた。

小一時間ほどポーっと過ごして門外に出る。降ろしてもらった場所にドライバーの姿はなかったので、ひょっとしてもう帰ってしまったかな、とほっとしたような少し悪いことをしたような気分で歩き始めると、遠くから“ミスタぁー”と飼い犬のように目を輝かせて、おっさんが走ってきた。“あいむ・うぇいてぃんぐ・そー・ろんぐ、あい・みす・ゆぅー”・・・ 再び捕獲されてしまった。こんなおいしい金づる逃してたまるかというおっさんの溢れ出んばかりの意気込みを感じた。もう逃げられない。少々覚悟してオートリクシャーに乗り込むとおっさんは連れて行きたいところがあると言って再びアクセルを吹かした。
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それでいいのか? ('95.8.4)

アグラに到着してバスを降りる。デリーにいた時、アグラから戻った日本人から聞いてあらかじめ目星をつけておいたホテルがあったので、客待ちのオートリクシャーに行き先を告げる。そのドライバーはまったく口数の多いやつで一方的にいろんなことを一度に聞いてくるので、何から答えてよいのか少し戸惑った。しかし質問を矢継ぎ早にしてくる割にはその答えにはあまり興味がないようで、たいして実のある会話をしないままホテルに到着した。それなのに「僕はあなたのことが好きになったから、今日は運賃はあなたの好きでいいよ」なんて言うものだから少し猜疑心をあおられ、相場の10Rs支払うことにした。

ホテルの名前はHotel Pinkといった。別にお色気ムンムンの印度人女性がくねくね迫ってくるという特典つき!というわけではなく、単に建物がペンキでピンク色にベタ塗りされた変化球勝負のホテルであった。一泊80Rs(≒¥270)であった。部屋に入って荷物を降ろして部屋を見渡すと、ピンク色の壁に2,3匹ヤモリが引っ付いていた。ピンク色の壁にミドリ色をした体と大きな冷たそうな目が不気味に浮かび上がる。まさか襲ってくることなどありえないのだが、彼らに見つめられながら寝るというのはあまり気分のいいものではないなと思った。その夜はホテルで一緒になった日本人とホテルのレストランで飯を食いながら遅くまでよもやま話をした。そのレストランのメニューに「このホテルはあやしいからすぐに宿を変えることをお勧めします」と以前に泊まった日本人客が書いたと思われるメッセージが、何とはなしに気になる。ふとフロントに目をやるとオーナーと思しき男がこちらを見ながら薄ら笑いを浮かべていた。

翌日、「どんどんどんどん」というけたたましいノックの音に飛び起きた。何事かと扉を開けると朝から力強い陽の光が男の背中越しに射していて、しばらく目が慣れるまで男の顔は良く分からなかった。ようやく昨日のドライバーがそこに満面の笑顔とともに立っていることが分かった。昨日去り際に「明日は俺がアグラを案内してやるよ」と言いつつそいつが去っていたのを思い出した。一方的ではあるが約束してしまったものは仕方がないので、少々不機嫌なまま「30みにっつ、うえいと」と言うと「オフコース、サー」と胸に手を当てお辞儀をしながら調子のいい返事をした。

ガイドブックによれば、オートリクシャーに乗るときには料金の事前交渉は必須で、それをしなかったがために後で法外な値段を請求されたなどという事例が載っていたので、僕もまずそこから始めた。「ハウマッチ、トゥデイ?」

するとそいつは昨日と同じく「アズ・ユー・ライク(あなたの好きにしてください)」と答えた。「あなたの気持ちはうれしいが最初に決めておきたい」と言うと、「なぜ私を信用できないのか?昨日だってそうしたじゃないか!私は悲しい・・・。」と情に訴えるようなことを言ってきた。ボクはそこで思い切りそれに騙され、「O.K.」と言ってしまった。すると彼は途端に上機嫌になり「レッツ・ゴー」と片手を振り上げて出発した。
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緊急対抗対策本部設置? ('95.8.4)

金魚のえさのような下痢薬のおかげですこぶる快調となった胃腸を従え、僕はタージマハルのあるアグラ行きのバス停に向かった。印度に来てほんの2日間しか過ごしていないのに随分と長い時間が経ったような気がする。自分が今まで知ることのなかった世界に入り込み、なんとか溶け込もうとする努力も空しく、印度人のパワーに押し返されているからであろうか。どのように彼らと接すればいいのか、うまい距離感もいまだつかめていない。とにかく、向こうの思うがままに翻弄されっ放しなのである。

朝6時30分に集まるようにいわれた集合場所には、そのバスに乗り込む風の外国人が眠たげに集まっているものの、肝心のバスと係員らしき人間が見当たらない。旅慣れた風の白人に聞いてみると、“まあこんなものだ、そのうち来るだろう。”と力強いような心許ないような答えが返ってきた。そのうち、本当にそのうち、ヨレヨレの白い開襟シャツを着た係員らしき男が現れた。そしてその男は“あと30分後にバスが来る”と全く詫びれる風もなく、ぱこぱことタバコをふかしながらそう言った。

やがておんぼろバスがようやく到着したが、結局7時30分に出発した。街を出て小一時間ほどで風景は農村地帯に変わる。けれども、幹線道路沿いには印度人が全く途切れない。人口密度としては日本とそれほど変わらないはずなのに、どこで目を開いても、目の前には必ず印度人がいるような気がする。しかしまあよく考えてみれば東京の人の多さのほうがここよりも異常かもしれない。印度人が山手線の通勤ラッシュを見たらどんなふうに考えるのだろうか。そんなことをうつらうつら考えつつバスに揺られる。アスファルトがところどころ陥没して細かい起伏を繰り返すので眠ろうとしても眠れず、風景も見飽きてきた頃バスは休憩地点に到着した。

30分の休憩を取ると言われたが、あまり腹の減っていない僕はその辺をうろつくことにした。するとサルと月の輪熊を従えた印度人2人がこちらに向かってくる。“はい、ふれんど、じゃぱに。あにばーさり、ぴくちゃ?”と言って、目の前でカメラを構えたポーズで、シャッターを切った後、手を出して、カメラを貸せという仕草をする。“イッツ、フリー?”と聞くと“オフコース”と言う答えが帰ってきた。少し安心し言われるままにカメラを差し出すと、近くにいた警官にそのカメラを渡し、僕を熊の上にまたがらせ、サルの小さな手を握らせた。別のポーズも指示され、なんだか訳の分からないうちに3枚ほど写真を取られた。

“サンキュウ、グッバイ”とその場を立ち去ろうとすると、“ミスター、ウエイト。バクシーシプリーズ”と1人の印度人が言った。お前、フリーって言ったじゃないかと反論すると、写真を取るのはフリーだが、あなたの気持ちが欲しいなどと言ってきた。警官に“ぜい・ちーと・みー”と助けを求めるが、お前が悪いぜと言ったふうに遠くを見て全く取り合ってくれない。ひょっとするとこの警官もグルなのかもしれないなと諦めて結局要求額の50Rsを負けさせて、20Rsを支払った。

少々腹を立てつつも、なんとも反論できないもどかしさにも腹を立てつつ、バスに乗り込んだ。これは早急に印度人緊急対抗対策本部を設置し、今後も待ち受けているであろう印度人のバイタリティー溢れる攻撃に対抗せねば。
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金魚のえさ ('95.8.3)

音が出ないように細心の注意を払いつつそっと尻をずらして済まそうとすると、ガスではない半固体が押し寄せてきた。括約筋を急速収縮させ、寸でのところで防いだ手応えはあったものの、はみ出ていないか確認がてら便所に向かうことにした。暗がりの中若干の情けなさを感じつつもパンツを見ると結果はセーフであった。手前味噌ではあるが自分の括約筋の鋭さに敬意をはらいつつ、ひと安心して屋上に戻り話しに加わった。しばらくすると今度は下腹がキューっと痛み始めた。アセり気味に再び便所に向かうと、訪印2日目にして早くもインドの洗礼“腹下しの儀”を迎えたのであった。間違いなく昼間食べた生野菜が原因である。

余談ではあるが、旅行をしているうちに下痢は日常的なものとなっていき、この旅行で排泄物が固形であったことはほとんど皆無だったと思う。一日二回ほどの頻度で、まあ普通より少し回数は多いがたまたまそれが柔らかかっただけのこと、という程度の認識になってくる。ただ敵に隙を見せるとバスや電車の車中などどうにもならない場所で一気に襲ってくることもあり油断は禁物である。そんな訳で、インドで楽しく快適に過ごすためには明るい排泄計画が必要十分条件となる。そのための基本はナマ物を一切食べないことと、水はミネラルウォーターを飲むことである。しかし巧妙にボトルのキャップだけを付け替え、入れ物はどこかその辺で拾ったりリサイクルした使いまわし品で中身は“水道水”なんてこともあるようなので気をつけねばならない。でも気をつけてもなかなか分からないので、その辺は運がものを言う世界だ。

輪に戻って皆に下痢のことを伝えると一人の日本人がいい薬があるといって部屋に取りに戻ってくれた。彼が部屋から持ってきたのは半紙のような薄い紙に包まれた、丁度10円玉くらいの大きさをした金魚のえさのような緑色の印度製下痢止め薬であった。皆の手を散々渡り歩いたあと最終的に僕に手渡された。嗅いでみると金魚のえさのような匂いがした。これは本当に金魚のえさなのではないかと疑いたくなったがいまさら飲みたくないとも言えず、覚悟を決めてその巨大金魚のえさのような下痢止め薬を口に放り込み水で流し込んだ。するとインドの菌にはインドの薬がよく効くのか、下腹の痛みは徐々に治まっていった。
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君はもうやってしまったか?('95.8.3)

食事を終えてその日本人と別れて、公衆電話から日本へ電話をかけることにした。“ISD”というサインが電話屋のことらしい。通りにいくつも木製有人電話ボックス(防犯のためか必ず人が横にいる)があり、International=60Rs/min(当時1Rs=3.4円)とボックスの窓ガラスにペンキで書かれていた。外から見えるように内側から逆文字で書いてあるのだが、そのせいでサインがにょろにょろとヘンテコになっていて微笑ましい。“こくサいでんワ”などと書かれているものもあり、その辺りのいい加減さがまたインドらしさでもある。

出発前にいろいろと心配をしていた母親に電話をかけた。出発の前の日などは今生の別れとも言わんばかりの心配振りであった。
受話器を取り、実家に電話をかけると母親が出た。「あー、おれだけど。おー、なんか周りが全部印度人でおもしれーぞ。うー、まあ湿気が高くてさすがに暑いなあ。まだ、昨日着いたばかりだから体は大丈夫だ。金がないからもう切るぞ、電話代高いんだよ。じゃーな」
高いお金を払った割には、まぬけな会話だけして180Rsを支払った。母親も涙ながらに送り出したものの、昨日と大して変わらぬ息子の様子に拍子抜けしていたようであった。

まだ飛行機の疲れが少し残っていたので街を散策するのはやめにして、次の目的地であるアグラ行きのバスチケットだけを予約して宿に戻った。日が傾いて夕方に差しかかった宿の屋上に上がると、昨日一緒だった日本人や、もう何泊もしているらしき日本人が輪になって話しをしていたので「どうもこんばんは」と言いつつそれに加えてもらう。場は『君はもうやってしまったか』の論議に花が咲いていた。何のことかというと大便後肛門残留付着物印度式処理を経験したかどうかの話だ。“そんなことできる訳がない派”と“もうウォシュレットなどいらない派”に別れてなかなか白熱した展開になっていた。

ここでひとつ解説を加えよう。ヒンドゥー教のインドでは、右手は浄の手、左手は不浄の手とされている。右手がお釈迦様を意味し、左手が人間たちを表すのだという。座禅をしたときその組座の上で手を重ね、親指をくっつけるそのポーズは人間がお釈迦様を支えている象徴だと教わった。話は一気に転落するが、飯を食うのは右手、ケツを拭くのは左手なのである。つまり大便後肛門残留付着物印度式処理とは大量でないにしても、水でうまく流しながら直接左手でウンチを拭い取る行為のことを言うのである。ボクは“まだ経験無しの中立派”として話しに参加しているとそのうち屁をコキたくなってきた。
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にんともかんとも ('95.8.3)

聞きなれない騒音に目が覚めた。そうだった、ぼくはインドにいるのだ。とうとう来てしまったのだ。昨日までの不安感は吹っ飛び、朝を迎えると急激にワクワクしてきて、それはなんとなくむかし親にねだって買ってもらった玩具が朝起きて枕元にあったことに安堵した感覚にも似ていた。ベッドの下に転がったビーチサンダルをつま先に引っ掛けて屋外に面した廊下に出てみる。もうすでに今日もオメーラただじゃおかないけんねという意志と勢いを持った太陽がどーんと空高く昇って、路地からの照り返しの光もキョーレツだ。宿が少し奥まったところにあるために建物と建物の隙間から少ししか見えない見える路地には、見たこともない人たちが歩いていた。まるで、遊園地のアトラクションを眺めているようなうかれた気分になった。

部屋に戻って鍵を閉め、地球の歩き方をポケットに差し街へ出掛ける。見えるもの、聞こえるもの、匂ってくるもの、地面からの蒸し返されるような暑さ。感じるすべてが初めてで、日本にいた時とはあまりにかけ離れた異質な感覚がぐわっと一度に押し寄せたので脳ミソがパンクしそうになっている。その場所に自分がいることが不思議な気分になり、なんだか白昼夢を見ているような感覚を覚えたがその空気に溶け込もうとなるべく平生を装う。

少し路地を進むと同じように無理やり溶け込もうと努力をしている風の日本人がいたので話し掛けてみた。後ろ姿がどことなくなんだか不安げだったのだ。話してみるとやはり昨日到着したとのこと。まだお互い飯を食っていなかったので地球の歩き方を道端で広げた。するとなんだなんだといった感じで印度人が集まってくる。まったくこの国の人は呼んでもないのにすぐに集まるのだ。そのうちの一人に僕の本はひったくられ、彼は乱暴にページをめくりつつ周りの印度人に写真を指差しながら何か言っている。それに反応して周りの印度人も口々になにか答えている。文字が分からなくてもカラー写真がついているのでなかなか面白いようだ。しかし飯が食いたいのにガイドブックを返してくれないのでなかなか調べることができない。少し困っていると一人の印度人があごをくいっと上げて、何を捜しているのだ、というような顔をしながら近づいてきた。"あいむ・はんぐりー・そー・あい・うぉんと・いーと"というと、そいつは"ほろー・みー"と言った。ガイドブックを返してもらい、なんとなく不安だったけど後についていく。すぐに食堂についた。

着くやいなや、"へっえーい・じゃぱーにぃー・ともだぁーちね"、"よーこそ・いらっしまっせ"、"はいはい・どーぞ・どーも"と怪しくも愛嬌のある歓迎を受ける。少々面食らいつつもダルバートという3色カレーセットを頼む。どんなものをダルバートというのかよくわからなかったが、ダルとは豆のことだとその日本人が教えてくれた。一口食ってみる。おーこれがまさに正真正銘の印度カレーだ。今回の旅の目的は、この正しい印度カレーを食うことでもあった。日本のカレーというのはイギリスを経由して入ってきているからだいぶ味が違う。タイ米のようなぱさぱさのご飯と煮込んだ豆の入った汁っ気の多いルーとがよく合い少し汗ばんだ額に外からの風が心地よい。汁っ気の多いルーと表現したがそれはカレーはドロドロしているものという日本人的感覚があるからで、印度カレーは日本人にとっての味噌汁の感覚に近いと思う。一緒に出てきた生の玉ねぎとトマトのレモン和えがカレーで火照った口直しに美味しそうで、ガイドブックに“生物は禁物”と書かれていたことを一瞬思い出したがそのまま平らげてしまった。
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やっと ('95.8.2)

小一時間ほど歩いただろうか。ようやく目的の安宿の集まるパハールガンジというところに到着した。しかし時刻はすでに午前1時半を回っており、どのホテルも門を硬く閉ざしていた。こんな時間になってもまだ昼間の熱気は絡みつくように漆黒の空気の中に残っている。そんな空気の中、道に面した縁側のようなところで眠っている人間がポツポツといた。家の中にいるより少しでも涼しくて寝やすいのだろうか。われわれが近づいたので目を覚まし、横になって腕枕をしたまま体勢を変えずに目だけをぐりぐりと動かしてこちらの様子を伺っている。真っ暗闇に少し充血した白目だけが浮かび上がる。相手が日本人であれば表情である程度何を考えているのか経験的に察することも出来るのであろうが、はじめて見る異国の人はただただ不気味で怖かった。けれどもなんとなくその表情から眠りを妨げられたという無言の抗議を感じたので、スマンスマンと詫びつつ忍び足でいそいで通り過ぎた。

さっきの元気な女性はホテルの門をノックして人を呼んでいた。中から人が目を擦りながら出てきて、その男に空き部屋を見せてくれるよう頼んでいた。どうやって宿を見つけるかも初めての経験で、まったくどうしたらよいのか分からず、情けなさを感じつつも僕らは後ろにぞろぞろと付いて行った。眠たげなその男が空き部屋のドアを開けると、その瞬間何かが動いた。どうやら溝鼠のようだ。僕はギョッとしたが、その女性は溝鼠にも臆することなくその部屋に泊まることに決めたようだ。僕たちも続けとばかりにそのホテルに泊まろうとしたがあいにくもう空き部屋がなく、残された人たちは宿を求めて再びぞろぞろと歩き出した。同じようにして別のホテルで部屋を見せてもらう。部屋を見せてもらったが、その部屋が値段の割に高いと言って別を探しにいく人もいるようだった。ぼくはもう飛行機の長旅とリュックの重さにもうんざりしていたので、その中の一人、大阪で写真の専門学校に行っているという人とダブルベッドの部屋に泊まることにした。

その部屋のベッドは少しべとべとしていたが、安心して寝られる場所をようやく見つけられたのでそんなことはどうでもよかった。けれども電気を消し、瞼を閉じたら、まったく勝手のわからない世界に来てしまったという不安で頭が一杯になった。
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道案内 ('95.8.2)

突然、乗合バスの日本人女性の一人が叫び出した。英語で言っていたので、よくわからなかったけれど、3、4人の印度人相手にもう付いてくるなというような外人のように大げさなジェスチャーを見せたかと思うと、すたすたと歩き出した。なんて言ってたの?と横の日本人に尋ねてみると、どうやらわれわれはバスを下車する場所を間違えたらしい。ニューデリー駅を目指すつもりが、オールドデリー近くで降りてしまったみたいだ。で、その女性がニューデリーにはどのようにしていくのかを印度人に尋ねてもなかなか教えてくれず、うちに泊まればいいなどと下心120%で言い寄る印度人にどうやら切れていたようだ。

ぼくはガイドブックに書かれていたことを思い出した。印度人の道案内は当てにならないのだ。知らない道であろうとも知っているかのごとく、間違った道を大変親切丁寧に教えてくれたりするのである。せっかく頼られたのにそれに答えられないのは恥ずかしいと思う国民性かららしい。それは悪気のない親切心からなのであろうが、こちらにとってはいい迷惑なのである。けれどもみんながみんなそうだというわけではなく本当に知っている人もいるので、とりあえずは信じるしかない。言われてたどり着いた先が違っていても、その先でまた聞けばいいのだ。間違いも勘違いも旅行の楽しみのうち、腹を立てても仕方がない。印度での旅行に慣れてくるに連れ、そんな風に思える余裕はできてきたけれど、着いたばかりのぼくには到底そんな風に思える余裕などあるはずもない。とにかくあの元気な女性に着いていくだけである。印度人はボクたち日本人の集団を取り囲むように相変わらず着いてくる。

ふいに暗闇から突然腕をつかまれ、列から引っ張り出された。よく分からなかったけれど、安いホテルがあるから着いてこいといっているようだった。“トラスト・ミー”などと言っているが、どうして初対面のあなたを信用できようか。このときは突然にそんなことを言われたから信用できるわけもなかったが、のちにさんざん親切に道案内してもらってその上チャイ(グラニュー糖がたくさん入ったミルクティー)までおごってもらいすっかり仲良くなった頃に面白い場所があると言われて連れて行かれた先が土産物屋だったという事はしばしばあることだった。後から気づかされたが、日本人が情に弱いことにつけ込んだ攻め方の常套手段であった。“ユー・アンド・ミー・トモダチネ.ホワイ?”などとつぶらな瞳で言われて(中には濁っている人もいたが)、こっちもまあ楽しい思いもさせてもらったしなんて思ってそのまましょうもない土産物を断りきれずに買わされてしまうのである。けれどもその時は、自分一人だけが集団からはぐれる勇気などある訳もなくその手を振り解いて、また集団に加わった。

周りを取り囲んでいた印度人が一人二人と離れていきその襲撃からの開放され、重い荷物をもっての移動に疲れ皆が無言になり始めた頃、遠くの真っ暗闇の中にぼんやりと安宿街らしき看板の灯が見えてきた。
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そんな宗教感 ('95.8.2)

するとそいつは蛇口をひねって、水を出してくれたではないか。おまけに手を洗い終えたぼくにハンケチを差し出した。おぅ、なんといい奴、でもぼくはその趣味がないからご免ねと、立ち去ろうとしたとき手がにゅーっと出てきた。そして、ぼくの目を見ながら、タバコのヤニで少々茶色に変色した歯をニカッと出しながら“ばくしーし”と言った。親切にしてあげたのだからバクシーシ(喜捨)をよこせと言うのだ。あとから知ったことだけれども,ヒンドゥー教では富める者は貧しきものに分け与えよという教えがあるそうで、あげたとしても貰うのが当然と思って礼さえ言わないこともしばしばあるし、あげなかったりすると「なぜくれないんだ!」なんて台詞の一つや二つは覚悟しておかなくてはならない。当然与える方も当たり前の顔でバクシーシを施している場面を寺院などで何度も見た。しかし、まだ両替を済ませていないぼくにはインドルピーの持ち合わせがなく、仕方なしに“ソーリー、アイ・アム・ベリー・ビンボー、バット・サンキュー”とわけのわからぬ英語で謝罪と感謝の気持ちを述べ、きょとんとする印度人に別れを告げた。

便所を出て、一人旅と思われる日本人(ジャパニ)にとりあえず話しかけ、安宿街までいっしょに連れ立つことにした。聞けば彼もぼくと同じようにはじめてのインドパワーに圧倒されていたとのことだった。心境を同じくした同士が現れて安心し、相変わらず何かを叫びつづける印度人から逃げるように空港バスに乗り込んだ。バスの発車まで少し時間があったが、その間も窓をこじ開けて隙間から手を入れてきたり窓をばしばしたたかれたりと、落ち着くことができない。早く出発してくれー。運転手がアクセルをぐおんとひと踏みしバスは走り出した時、ようやくひと安心することができた。

街灯の少ない薄暗い道をバスに揺られる。ほとんどの窓が開かれているので怪しく絡みつくようなややぬめっとした湿度の高い空気がバスの中を通りすぎていく。見ると乗客のほとんどは日本からのバックパッカー(≒貧乏旅行者)であった。まあ、日本からの直行便で来たのだから当然と言えば当然なのであるが,こんな異国の地での乗合バスがほとんど日本人だというのも安心できるような,もの悲しいようなよくわからない気分になった。その日本人たちと話をする。自分と同じように初めての旅行で緊張してやたら口数の多い奴や、印度には何度も来ていて悠々と窓の外を眺めている人、自分の旅行体験を雄弁に語る人などいろいろだった。

そのうちバスは幹線道路から外れ、細かく右左折を繰り返したあとバス停と思しき場所に止まった。ぼくにはどこにいるのかもこれからどうしていいのかもよくわからなかった。頼みは乗り合わせた日本人だけだ。すでに周りにはたくさんの印度人が集まり始めている。すぐに50人ほどにふくれあがり、100個以上の目がこちらに熱い視線を送ってくる。とっくに0時を回っているというのに、この人の多さは何なんだろう。
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オー・マイ・印度 ('95.8.2)

どきどきしながら入国審査と税関に突入する。なにせ、すべてが初めての体験なのだ。何の問題もなくそこを通り過ぎると変な匂いがしてきた。粘っこくて鼻腔の奥に絡み付くなんともいえぬ、独特の匂いだ。後から思えばこれが懐かしくもある印度臭なのだったのだけれど、その時はこの匂いが急速に不安を高めていった。

外に出るとお祭りかと思うほどの人間がうようよしていた。薄暗いロビーの中に白い目と白い歯だけをくっきりさせた印度人がわんさといた。みんな口々にいろんな事をモーレツに叫んでいる。そしてみんなこっちを見ている。なんだなんだと目だけをきょろきょろ見渡してみるが、ぼくはその状況をさっぱり理解できずにただボーゼンと思わず足がすくんだ。そういえば、旅行に出る前に読んだガイドブックにはいろいろ怪しいことが書かれていたなあ。それらが急速に蘇りグルグルとぼくの頭の中でとぐろを巻きはじめ、徐々に緊張が高まっていった。何を叫んでいるのかはぜんぜんわからなかったが、ぼくは急速に臨戦体制を整えていった。

ふと、ションベンがしたくなった。印度人視線ギロギロ攻撃から逃げ出すように便所に駆け込んで、一息つく。中は国際空港らしく手入れの届いたきれいな便所であった。しかしそういえば、印度式の大便は手動式ウォシュレットで紙なぞ置いていないトイレが多いとガイドブックに書いてあったなあと思い出し、今回はションベンだけではあったが、来たるべきその瞬間に備えてその部分はどおなっておるのかと、予習のつもりで大便所の戸を開けてみた。しかしそこには期待と予想に反して、普通のトイレットペーパーが装備され、何の変哲もない便器が据わっていた。いつまで見ていても仕方がないので、小便器側に向き直り用を足し始めた。

きゅいー、とドアの開く音がして誰かが入ってきた。印度人だ。ぼくの隣には立たず、なぜか入り口付近に立ったまま小便するぼくをじっと見つめている。視線の隅でそいつを見るとやんわりとうすら笑っているではないか!便所に入れば安らぎが待っているかと思いきや、彼らはなかなか休息を与えてはくれない。これはガイドブックにも書いてなかった展開だぞ、いきなりホモの出現か?それにしてもこの状態で後ろから抱きつかれたらあまりにも不利すぎるので、少々アセリながら下腹に力を入れ急いで残りを搾り出した。そうしてそいつと目を合わせないように、ぼくは手洗い場に恐る恐るぎこちなくゆっくりと向かった。
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